naruhodo (茶房・たかはし) blog

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2012年 02月 16日

序ー真理とは何か 2

世の中の偏狭さの殆んどは真理についての誤った考え方のために起こるのである。同じ教室の中で少しばかりの知恵によって自分たちが、それぞれ紙一重の差があることが分かると、人々は真理についての各自の考えを主張して必死になって争い合う。しかし個人的な知能のいずれも理解力でごくわずかな差があるという事実のために、各人にとっての真理はごくわずかな差があるのだ。偏狭さは無知の特徴である。なぜなら発達した知性ある人は活動の連続を見るときに分離した各活動が相関的に事実であることを悟るからである。そして1つの問題のあらゆる面を理解するので本人は何物にも束縛されない。このタイプの知性は真理全体の中の1つの局面だけを見る人を非難しない。むしろその人が持っている考え方に付属する落とし穴または限界を指摘するのである。

 真理とは活動である。…各部分が真実であるところの活動全体なのだ。もろもろの小さな真理は大きな真理となる。そしてニセモノとして捨てられる1つの小さな真理が、過去の歴史に示されるように、文明の発達を妨げる事にもなるのである。
 人間は真理の意味を理解せず、それゆえに偏狭であるために、これまでに一千年以上の科学的な暗黒の期間があった。緩慢に進歩する文明を、もっと高度な人間的表現に引き上げることが出来たかもしれない暗黒の期間があったのだ。
 「あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にするだろう」真理とは万物が真実であるということなのだ。それは相対的な意味において真実なのであって、しかもこれは他のすべての物にたいして相対的という意味である。しかし人間があらゆる活動の”因”を認めてそれに十分な考慮を払わないかぎり、決して自由にはなれない。人間の努力を結合させて共通の目的を認めてこそ、人間は文明を理解と進歩との一体化した状態にすることができるのである。
 真理とはいわば大きなはめ絵パズルのようなものである。そして各人の個人としての表現は全体を構成するための一部分である。成熟した人は人生とは遂行しなければならない義務の連続であるということに気づく。人生について異なったさまざまな概念があるからといって一人だけが正しいことにはならない。いや、すべては真実なのだ。人間の心の中に抱かれる考えが何であっても、さしあたってそれは本人にとっては真理である。それはちょうど自然のあらゆる活動が創造的であっても崩壊的あっても真実であるのと同様である。他の真理(複数)に関連して人間の考えを建設的に用いるための十分な知識を持たないためにその考えは愚かしく利用されるかもしれないが、だからといってその結果が犯罪行為になるというわけではない。
 それゆえ、この世における人間の目的は真実なるものと真実ならざるものとを個人的に判断する事ではなくて、われわれが”原因と結果”の知識と一体化することができるように、われわれ自身を大自然と同位に置くことにあるのである。
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by naruhodoo | 2012-02-16 23:14 | その他 | Comments(0)


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